レインボーリボン メールマガジン 第103号 オン・セン
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■■ レインボーリボン メールマガジン 第103号
■■ オン・セン
2022/10/31
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毎月末、NPO法人レインボーリボンの活動報告と、代表、緒方の思いをお伝えするメールマガジンです。
今回は活動報告として、今月ギニアに帰国したDさん一家に対する約3年間の支援の記録をお伝えしたいと思います。
お父さんのDさん(70才)、お母さんのMさん(44才)、8才の長男、先月6才になったばかりの次男、3才の長女――という5人家族が10月19日、成田空港からギニアのコナクリ国際空港に出立し、Mさんにとっては約10年ぶり、3人の子どもたちにとっては初めての「帰国」を果たしました。
彼らが極度の困窮状態に陥ったのは、戦争や迫害といった政治的理由ではなく、多分にDさんの「個性」による極めて特殊なケースです。しかし、あまりにも多くの人を巻き込んで、たくさんのお金と労力と時間と、たくさんの「真心」が注ぎ込まれた支援活動の記録を残すことは、私の責任だと思いました。いつにもまして長文となりますが、どうかお付き合いください。
―― 出会い ――
私が初めて一家と出会ったのは2019年の夏、葛飾区内でオープンしたばかりの、ある子ども食堂でした。
ギニア人の一家が非常に困窮していて、電気・ガスが度々止められており、小さな子どもたちの食べるものもないようだという情報を区役所の自立支援相談員から受け、一家の近くの子ども食堂を紹介したのです。Nさんという日本人の女性が友人として、個人で一家を支援していて、その日も子ども食堂まで連れて来てくれるということでした。
私が様子を見に行ったのは、半分はNさんに会いたかったからです。Nさんは想像どおり、純粋な、さっぱりとした「無私の人」でした。後々、Nさんは「あの時、緒方さんに会えなかったら、もうどうなっていたか分からない。私は緒方さんに抱きついてしまった」と言ってくれます。それまで数年間、たった1人でD家を支えていたのです。
Dさんは物腰柔らかな背の高い人で、子ども食堂のスタッフにも丁寧にお礼を述べていました。当時はブルキナファソ大使館のドライバーとして働いていましたが、2017年の約1年間、コンゴ大使館で働いていたときに給与不払いがあり、一家の困窮が始まったとのことでした。
長男は春から地元の小学校に行くのだと、日本語ではっきりと話してくれました。下の2人は子ども食堂でお腹いっぱい食べたその日も、あまり笑顔がなかったことが気になりました。
最も心配だったのは、母親のMさんでした。
私が「寄付ですよ」と渡した乾麺をひったくるように受け取って、急いで帰っていきました。
Mさんが私たち支援者への警戒心を解き、感謝を述べ、頼ってくれるようになったのは、その時の子ども食堂の中心的スタッフFさん、自宅が近いからと度々食料を届けてくれたIさんの献身的な支援によるところが大きいです。
Mさんは母国で養親に虐待され、母国語のフラニ―語も公用語であるフランス語も読み書きの教育をほとんど受けていません。30才になった頃、Dさんのお母さんに「日本にいる私の息子と結婚して今の生活から逃れてはどうか」と勧められ、親子ほども年齢差のあるDさんと結婚し(Dさんによると、日本から書類を母国に送っただけの結婚)、来日しました。
その後、今回の「帰国支援」に至るまで、私たちはMさんの日本語やお金の管理に関する「能力の低さ」に悩まされることになるのですが、Mさんは日本語を学ぶ機会もなく、家計を任されることもなく、ただ家族の世話だけをしてきたのです。今、振り返ってみると、Dさんは今もギニアに先妻、子どもがいて、「Dファミリー」という生活の基盤のある人です。10年前、Dさんの「日本での妻」としてMさんが送り出されたこと自体、「一夫多妻」の風習が色濃く残る社会で、Mさんの人権が軽んじられた出来事だったのではないかと思います。
―― 食糧支援から在留資格変更支援へ。「D家支援」から「Mさん支援」へ ――
2020年春、コロナ禍によって子ども食堂の活動は制限されましたが、その代わり、私たちは「お弁当プロジェクト」、「フードパントリー」という新しい活動を始めました。
レインボーリボンだけではなく、Fさん、Iさんはじめ、様々な団体、個人の皆さんがボランティアとして協力してくれました。D家にも食料、衛生用品、オムツが届けられました。
Mさんは支援を受けるだけではなく、自分で働きたいと訴えていました。
就職先はFさんが地元の介護施設を紹介してくれました。しかし、Mさんが働くためには入管の許可が必要でした。2021年6月、私は入国管理局宛てにMさんの就労を許可してくれるよう、嘆願書を書きました。ギニア大使館、Dさんが勤務しているブルキナファソ大使館にも、Mさんの在留資格を就労可能なものに変えてほしいとする口上書を書いてもらいました。
この時、私たちの支援は「D家支援」から「Mさん支援」に移行したと思っています。
2021年夏、葛飾区役所で「支援者会議」が開かれました。
区役所の福祉部局、子ども支援の担当部局、教育委員会のスクール・ソーシャルワーカー、困窮者自立支援窓口、私たち子ども食堂ボランティア、長年の支援者Nさんが一同に会して話し合いました。
この時、共有されたD家に関する情報です。
Dさんは1987年、ギニア大使だった実のお兄さんのドライバーとして来日。その後、お兄さんはアメリカに赴任し、亡くなってしまったのですが、Dさんはそのまま日本でアフリカ各国の大使館を転々としながらドライバーとして30年以上勤務していました。
Nさんはコンゴ大使館に隣接する会社に勤めていたときDさんと知り合い、コンゴの政変に伴って大使館職員の処遇が悪化していく中、Dさんの生活の相談にものるようになったそうです。Nさんは行政の支援を受けるためにDさんを連れ回りましたが、「公的在留資格」のDさんには住民票がないため、日本の福祉制度の対象とはなりませんでした。
後にMさんに聞いたことですが、次男が生まれた頃はミルクも買えず、砂糖水を飲ませていたというほどの困窮状態で、Nさんの助言で都内では比較的家賃の安い葛飾区柴又に引っ越してきました。
そのアパートの家賃の滞納は100万円近く。電気・ガス・水道の滞納も。
区役所が最も頭を痛めていたのは、国民健康保険の滞納でした。
Dさんは2018年12月、慢性心不全で地域の病院に入院しました。この時は人道的措置として区が医療費を支給しました。暮れの押し迫った中での緊急措置であり、もう2度と支給はないと念を押しているのですが、その後も、Dさんが度々タバコを喫っていることが懸念材料でした。
次男が多動で発達障がいの心配があること、両親と学校や保育園側とのコミュニケーションに難しさがあることなど、様々な課題が浮き彫りになりました。
Dさんの年齢、健康状態から、ドライバーの仕事をいつまでも続けられる状態ではなく、Dさんが仕事を失えば家族全員の「公的在留資格」が失われ、帰国せざるを得ないという現実問題もありました。
しかし、Dさんは「死ぬまで日本にいる」と言い、Mさんは3人の子どもたちを日本で育てたいと強く望んでいました。私としてはMさんの望みを叶える支援に取り組むしかありませんでした。
2021年9月、入管から「資格外活動不許可」の通知が届き、Mさんの就労がそう簡単ではないことが分かりました。
法律の専門家の支援が必要だと思いました。
法テラス国際室の初代室長、弁護士のT先生との運命的な出会いがあり、Mさん支援はますます熱を帯び、支援の幅も広がりました。T先生の助言により、Mさんのための「日本語教室」も始めました。これは私の友人がフランス語を話せる友人を紹介してくれて、週に1回、オンラインで、まったくの無償で日本語を教えてくれたのです。
その後「定住申請」、「資格外活動の包括許可申請」と、T弁護士は粘り強く活動してくれましたが、入管からは3度にわたる「不許可」通知を受けることとなりました。
不許可の理由は「現在、Dさんが相応の給与を得ており(ブルキナファソ大使館の給与は20万円弱ありました)、一家の困窮は人道的配慮を要するほどのものではない」、「困窮を理由として定住資格申請はできない」、「そもそも公的在留資格を持つ外国人が困窮することを法律は想定していない」といったものでした。
言われてみれば、それはそうです。
Mさんと子どもたちが困窮している原因は、Dさんが必要な生活費、学費を家計に入れていないからです。Mさんも自分にお金を渡すように強く主張できない、長年の従属関係の中にいるためです。
私たちはわずかでもMさんがアルバイト収入を得られるようになれば、食事や学用品に余裕が生まれるし、Mさんがお金を管理する練習にもなる、行政がDさんにお金の使い方を指導するきっかけにもなると目論んでいたのですが、法律はそのような柔軟な対応を許してくれるものではありません。
ほとんど打つ手なしの状態で呆然としていた今年の夏、ついに恐れていたことが現実となりました。
2022年7月4日、Dさんが心不全再発のためICUに。医師の説明では「今後回復したとしても、いつ発作が起きるかわからない」とのことで、車の運転にはドクターストップがかかりました。
―― 帰国支援へ ――
まず、医療費はどうするのか、生活費はどうするのか…。ICUでの面会を許されたMさんとNさんがDさんの銀行カードを持って出てきました。病院のATMで確認すると残金は500円余。
先月の給与が振り込まれた直後のはずなのに…。何に使っているの?どこに消えてしまうの?この時の愕然とした思いを、この後、私は何度も経験することになります。
とにかく緊急カンパを集めなければと思いましたが、私の脳裏をよぎったのは、子どものオムツ代も渡さずにタバコを喫っていたDさんのために募金を呼びかけて良いのだろうかということでした。
寄付を呼びかける以上、寄付してくださる人の信頼を裏切るようなことは決してしたくないと思っています。この点、今回は苦しい場面がいくつもありました。
募金活動は、翌週には一般病棟に移動したDさんの了承も得て、限定的な範囲で呼びかけ始めました。「日本の福祉では救えない外国人一家を助けたい」という簡単な説明だけで、D家とは何の関わりのない人からも、D家の長男と同級生の子を持つ親だという人からも、あっという間に寄付金が集まり、10月の帰国後最終報告の段階で1,221,561円という多額の浄財が寄せられました。
奇跡的な回復で、Dさんは7月27日に退院できました。
入院中の病院でT弁護士、区役所の方々も交えた話し合い、見舞いにいらしたブルキナファソ大使との面会もありました。Mさんは一貫して「ギニアには帰りたくない」という姿勢でした。しかし、在留資格の面でも、経済の面でも日本で一家が生活できる条件はもはや無く、帰国するしか道はありません。
8月はDさんの薬の確保と、Mさんの説得のために費やされた日々でした。
8月末、Mさんが1人でレインボーリボンの事務所にやってきました。
幼い時から暴力を受けて来たギニアに帰ることは考えられない、自分の子どもたちも同じような目にあうと思うと訴え、さらに、余命宣告を受けているDさんが亡くなればギニアのDファミリーは自分と3人の子どもを追い出すだろうとも言いました。
もう一つ、重大な告白がありました。
フランスに叔父さんがいるというのです。叔父さんは自分と3人の子を受け容れてくれると思うと。
私は驚き、頭を抱えました。
ギニアに帰ることがMさんにとってどんなに辛いことなのか、想像に余りあります。しかし、日本での就労が叶わない以上、日本に残るという選択肢はもはや無いのです。Mさんは「自分が死ねば子どもたちは日本の施設で育ててもらえるのか」とまで言いましたが、それで子どもが幸せに生きていけるとはとても思えません。特に、障がいのある次男を愛情をもって育てられるのはMさん以外に誰もいないと思います。
フランスの叔父さんのもとで、Mさんが美容師の資格を生かして働く可能性はあるといいます。しかし、叔父さんがDさんの身柄まで引き受けるとは思えません。また、フランス政府が一家にビザを出すのかどうかもまったく分かりませんし、そうした申請には時間もかかるでしょう。「ギニア行き」と「フランス行き」では寄付金の使い方も金額も、まったく変わってきます。
Mさんに訊きました。「Dさんとギニアに帰る、Dさんと離婚してフランスに行く、どっち?」。
Mさんも頭を抱えた後、結局「Dさんとギニアに帰る」ことを選択しました。
T弁護士の尽力で9月に入ってから分かったことですが、3人の子どものうち下の2人はギニア大使館に出生届が提出されておらず、無国籍児だったのです。
それに大使館の都合で家族全員のパスポートが期限切れとなっていて、帰国するために臨時のトラベルレターを発給してもらいました。
いずれにしろ一度はギニアに帰国しなければ、パスポートも他の国のビザも何もない状態だったわけですが、それでも、フランスに叔父さんがいるという情報は、私とNさんにとって大きな希望となりました。Mさんの言うとおり、もしもギニアで路頭に迷うような事態になったとしても、もう一つの選択肢があるという希望です。
その後、Nさんと私はフランスの叔父さんと連絡をとり始めました。
9月は帰国に向けての具体的な準備に奔走しました。
Dさんは日本語も英語も実は正確には理解しておらず、入管での手続きや航空券の購入といったことはできない人なのです。すべての作業を支援者がしなければなりませんでした。
「ギニア大使館に陳情して航空券代を援助してもらう」ということは本人にしかできないことですが、自分からは電話をしない、T弁護士の働きかけで大使館から電話がきても出ない、折り返しもしない、その後、一等書記官が夏季休暇に入ってしまってから受付職員にしつこく電話する…といった、何とも情けないことになってしまうのです。
ギニア大使館からの援助はついに得られませんでした。
航空券代だけで寄付金のすべてを使ってしまうことは避けたかったので、10月5日成田発、一家5人で55万円弱という格安航空券を見つけ、予約しました。
Dさん、Mさんと合意書を交わし、寄付金のうち約20万円は当面の生活費として帰国前にMさんに渡すこと、さらに寄付金の残余は帰国後のMさんの生活自立のために少しずつ送金することとしました。
―― 心が折れたとき ――
10月5日、Fさん、IさんはD家で送り出す役割、Nさんは一家と一緒にワゴンタクシーに乗って空港に連れて来る役割とし、私は空港で待機しました。
日本出国時に審査がスムーズに進むよう、T弁護士が入管への説明も準備してくださり、ギニア入国に必要な検疫証明書はコロナワクチン接種証明書だけで良いことも調べてありました。
コロナワクチンはDさんもMさんもブルキナファソ大使館の職域接種を受けたと言っていたので安心していたのですが、これがまさかの落とし穴でした。
航空機に預ける荷物、持ち込み荷物の制限も調べて知らせてあったのに、一家が空港に持ってきた荷物は数も重量も、明らかにオーバーしていました。航空会社の案内スタッフが早めにチェックを受けるように促し、ワクチン接種証明書の提示を求めたところ、Dさんが荷物の中を探し始めました。
MさんはDさんに渡したと主張します。空港ロビーで大量のスーツケースを片っ端から開けることになりました。航空会社の職員も出て来て探しましたが見つかりません。次には、Dさんが「ブルキナファソ大使館にコピーがある」と言い出し、Nさんが必死にブルキナファソ大使館に連絡を試みました。
約2時間半、私は暴れまわる次男を押さえているだけで精一杯でした。
離陸時間にもう間に合わないとあきらめ、ワゴンタクシーを再度呼び、家賃不払いのまま送り出してくれた柴又のアパートに再び一家を返し、Nさんと帰途についた電車の中で、私は初めて「もういやだ、もう降りたい」と言っていました。
雨が降りしきる寒い夜でした。次男に蹴られた胸の痛みと、折れた傘を抱えて帰宅しました。あまりのことに涙も出ませんでした。
航空券は「日付変更不可」の格安航空券でした。私を信頼してくれてご寄付くださった皆さんの55万円弱を消失してしまったのです。
寄付者に何と説明すれば良いのか、お詫びの言葉もないと思っていましたが、この後、「一家はまだ帰国しておりません。申し訳ない」という中間報告メールを送ったところ、多くの方から「謝罪の必要はない」「緒方さんを心配している」と、温かい返信をいただきました。
その夜は一睡もできませんでした。
Dさんに対する怒りで脳は興奮状態でしたが、雨の音を聞きながら、やはり3人の子どもたちの顔が浮かびます。もう今日で電気・ガスを止めたはずの柴又のアパートで震えているのではないかと思うと、やはり見捨てることはできませんでした。
翌日、Mさんと3人の子どもをタクシーに乗せ、Dさんには後から電車で来るように言って、ギニア大使館に駆け込みました。さすがに大使館が保護してくれるだろうと思っていましたが、驚いたことに、その日の夜には一家は柴又のアパートに戻っていました。
Dさんの「行動パターン」としか言いようがないのですが、「あなたの面倒を見ることはできない」という態度で一貫しているギニア大使館に対しては非常に弱腰で権利を主張せず、自分に親切に接してくれる人に対してはどこまでも甘えてくるのです。
あらゆることを許してくれた柴又の大家さんですが、ギニア大使館からアパートに帰ってきた日、我々支援者に促され、「警察を呼ぶしかない」とDさんに告げました。するとDさんはその場でブルキナファソ大使館に電話し、大使館が1か月分の家賃を払ってくれると(後で嘘だとわかるのですが)、いつものパターンでその場を切り抜けてしまいます。
結局、職域接種者のワクチン証明書は自治体に申請してから1週間以上待たなければならないので、PCR検査を受けるようにブルキナファソ大使館で説明されていたのに、Dさんが理解していなかったことが分かりました。
子どもも接種証明が必要なのかどうか、私がギニア大使館に問い合わせても「もう2度とDのことで電話してこないで」と逆切れされて話にならず、エチオピア航空の搭乗条件に従って5才以上の2人の子のワクチン・パスポートを葛飾区に出してもらいました。
寄付金の残余すべてを充てても足りない分は私が個人的に負担し、10月19日発の航空券を購入しました。
10月5日から19日までの2週間、我々支援者は一度は折れた心をつなぎ合わせ、何とか励まし合って「帰国支援」を続けました。
一時はDさんと母子を引き離し、母子だけを日本の施設に保護することも検討しましたが、子どもの最善の利益を考えれば、やはりMさんが経済的に自立して子どもたちを育てられる環境に送り出すことだと覚悟を決めました。
フランスの叔父さんが「15日から2週間ギニアに滞在する予定」、「私と私の娘たちはMさんを招待する」という連絡をくれたときは、安堵のあまり涙が止まりませんでした。
19日の成田空港では、何度も念を押したのに今回も制限オーバーの荷物を持ち込んでいたり、一家のパスポートの期限切れが問題視されて搭乗手続きに時間がかかったり、やはりドタバタの場面はありましたが、なんとかNさんと私と、もう一人、「次男対策」に来てくれたボランティアと3人で、出国ゲートで一家を見送ることができました。
ギニアのコナクリ空港に到着した時には、事前に連絡をとってあったDさんの姪と、Mさんのフランス在住の叔父さんが迎えてくれたそうです。
いま、叔父さんがMさんの当面の住居を探してくれているはずです。
8才の長男はもう友だちができたそうです。
まだ流動的な状態ですが、私にとってはここに行き着くまでがあまりにも激動の日々で、今はとにかくギニアの姪御さんとフランスの叔父さんに支援のバトンを渡すことができたという安堵感でいっぱいです。
10月19日出国ゲートで見送ったときはまだまだ緊張状態で、日本語教室をやっていた時にMさんに教えてもらったフラニ―語で挨拶することを忘れてしまいました。
フラニ―語で「バイバイまたね」は、日本語の「温泉」と同じ発音で、「オン・セン」と言うそうです。
(代表・緒方美穂子)
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