22世紀アート出版原稿

心が震えた日から始まる
 レインボーリボンのキセキ

     NPO法人レインボーリボン代表 緒方美穂子

プロローグ ―「キセキ」の始まり
 レインボーリボンは東京都葛飾区の公立小学校PTAで出会ったお母さんたちが作ったNPOです。
「困った子」は「困っている子」、「困ったお母さん」は「困っているお母さん」と気づいたときから、外国人のお母さんや障がいのある人たちとの仲間づくり、「多文化共生の子育ち・子育て」支援が始まりました。
毎週土曜日は「あおとこども食堂」と「フードパントリー」を交互に開催しています。
年に数回、小学校や中学校からの依頼を受けて「いじめ防止教室」を実施しています。
PTA研修の講師として出かけることもあります。
こんなに小さな団体がこんなにたくさんの活動を、こんなに長く続けてこられたのは、節目節目に奇跡のような出会いがあり、心が震える感動があり、その一つ一つが私たちを導いてくれた結果だと思います。
「レインボーリボンのキセキ」というタイトルには、私たちのこれまでの歩みの跡という意味の「軌跡」と、節目節目に出会ってきた信じられないような「奇跡」の記録という意味を込めました。
最初に起きた「奇跡」は二〇〇六年、私のひとり娘が小学校に入学した年に起きました。
子どもの入学の年、親にとってはPTAデビューの年です。
当時、私たちの学校では、子どもが在学中に一度はPTAの委員を務めるという暗黙のルールがありました。けれど、仕事に家事に育児にと、どこの家庭も毎日が精一杯。自分から「やりたい」と手を挙げる人は少なく、たいていはくじ引きやジャンケン、あるいは「決まらないと帰れません」といった重圧の中で選出されていきます。
その年、私が娘のクラスの保護者会で「PTA広報部、やります」と手を挙げたのは、決してやる気があったわけでも、犠牲的精神からでもなく、ただ、その翌年が学校の創立五〇周年にあたるとわかっていたので、面倒なお役目を周年行事が始まる前に済ませておこうというズルい考えからでした。
一年生の親だし、部長、副部長になる心配もない…そう思っていました。
ところが、その後、一年生から六年生まで二クラスずつ十二人のお母さんが集まった広報部会。
ここでも重い沈黙の空気が続き、一年生の娘は「ママ~まだ~?もう帰りたい~」とぐずります。私もこれ以上長い沈黙の時間に耐えきれず、仕方なく「部長やります」と言ってしまいました。
これが、すべての始まりでした。
こんな風に、「あ~あ」と、半ばあきらめ、半ばヤケクソで始まったPTA広報部長というお役目に、この後、私はなんと、ドハマりし、最も避けたかったはずの翌年の周年行事やら、毎年のPTA委員決めの保護者会やら、どんどん手を出し、顔を出し、口をはさんでいくことになるのです。
いったいなぜ、そんなことに…?
それは、孤独の「孤」と書く「孤育て」、ひとりで頑張る子育てからの解放という奇跡が、私の身に起きたからです。
PTA広報部の仕事は毎学期の広報紙づくりですが、どうせ誰もやりたくないだろう、一学期号は自分一人で作っちゃおうと高をくくっていた私。取材から原稿、写真、レイアウトまで全部一人でやろうとしたのですが、最初の挫折はすぐにやってきました。
私はその時、専業主婦となってすでに七年。仕事をしていた時に使っていた文章ソフトはもう何世代もバージョンアップしていて、簡単にできると思っていた紙面レイアウトがまったくできませんでした。
そんなとき、私を救ってくれたのは同じ広報部員のお母さんでした。
「緒方さん、大変そうだから、レイアウトは私がやりますよ」
仲間に助けてもらわなければ、一人ではできない活動なのだと、ようやく理解しました。一人で百%の力を出し切るのではなく、みんなが七〇%の力を持ち寄って、肩の力を抜いて楽しく活動する。
その後、NPO法人結成にまで至る私たちの活動スタイルが、この時、定まりました。

第一章 目の前にいる人との共生 ― PTAから社会を覗く
そもそもPTAの委員、部会の中でも、広報部は最も敬遠されがちなお役目なのです。
各学年で、例えば家庭科調理実習のときに先生のお手伝いをする委員とか、保護者同士の親睦を深める文化行事を企画する委員とかが順番に、「じゃあ、今年やっておこうか」という感じで手が挙がり、徐々に決まっていきます。最後に残るのが広報部なのです。
どなたか広報部、やってもらえませんか?まだ一度もPTAの委員やってない方…
「私、文章なんて書けません」「広報なんて、できません」と拒否され、ついにジャンケン、あるいはくじ引きという流れに。
ジャンケンで広報部になってしまった人は泣いていました、本当に。
ところが、二〇〇六年の奇跡…つまり、私が広報部長にドハマりした奇跡です…そのいきさつはこの後、詳しく書きますが…私たちの広報部は、文章なんて書いたことのない人でも、日本語が読めない外国人のお母さんでも、一年生から六年生までのお母さんたち、時にはお父さんも交えて、楽しくてやりがいのある素敵な部会となり、そんな雰囲気は全校の保護者に伝わり、毎年の委員決めでは人気の部会になってしまったのです。娘が五年生になる年の保護者会では、広報部に立候補してもジャンケンで負けて、私は広報部になれませんでした。

さて、私が広報部長というお役目にハマった経緯です。
その年の広報部員十二人のうち、二人が外国人のお母さんでした。
一人はタイ人のお母さん。四年生の息子さんがいました。
二学期号で「校長先生に突撃インタビュー」という企画を立て、私と一緒に校長室を訪ねました。ひととおりの質問をし、最後に何か聞きたいことはないですか、と、彼女に水を向けると、彼女は校長先生への感謝の言葉を、素朴な表現でとつとつと語りました。
息子は毎日楽しく学校に通っている、本当にありがたいと。
「夫は日本人ですが、タイが大好き。引退したら私とタイに移住しようかと言っています。でも、息子は絶対に嫌だ、ついていかないと言います。なぜなら、タイには徴兵制があるのです。タイで軍隊に入るのは絶対に嫌だと。お父さんとお母さんがタイに行くなら、僕は学校の保健室で寝ると言っています」。
校長室で笑い話として話してくれたその言葉が、とても印象に残りました。
外国にルーツをもつ子どもの、一人ひとりちがう、国の事情や背景、小さな胸に抱えている不安、悩みを、初めてリアルに感じた話でした。
そして、タイ人のお母さんの学校に対する信頼感、先生に対する尊敬、感謝の純粋な気持ちにも感動しました。私なんかはちょっと擦れてしまって、忘れていた感覚でした。
そんな清々しい気持ちで取材を終え、二学期号の紙面は、今度は自分一人で作ろうとはゆめゆめ考えずに、みんなの力を合わせて作り上げました。
完成した紙面を前に、達成感と、広報部のみんなと仲間になれたという嬉しさ、連帯感を胸に、さて、三学期号はどうしましょうか、という広報部会です。
二学期号、良かったよね~、校長先生インタビューもうまくいったよね~。
ちょっと待って。
一人の部員が言いました。
タイ人のお母さん、校長先生インタビューの記事、読めるの?
一同、びっくりです。
タイ人のお母さんは「いいえ、読めません」と、当たり前だとばかりに答えました。
そうか、日本語の記事、読めないんだ。読めない広報紙を作っているんだ。
「仲間になれた」なんて喜んでいたけど、「純粋な気持ちに感動した」なんておだてていたけど、彼女のこと、何にも分かっていなかった。分かろうともしていなかった。
目の前にいるのに、見ていなかったという、衝撃の事実でした。
余談ですが、この後、「外国人の保護者と共にPTA活動を楽しみましょう」と世の中に向かって呼びかけ始めた私たち。ある学校のPTA会長さんが「うちの学校には外国人、いませんから」と言われたときに、この時の自分自身に対する衝撃を思い出しました。外国人がいないんじゃないんです。目の前にいるのに、見ていないんです。見えていないんです。
さて、この時の部会で、三学期号の特集記事は「外国人ママの本音座談会」に決まりました。
外国人ママって本当はいろいろなことに困っているんじゃないの?
学校からのお手紙だって読めないでしょう。いったいどうしているの?
この際、本音でいろいろ話してもらおうよ。
その日から座談会に出てくれる外国人のお母さん探しが始まりました。
最優先のターゲットは、十二人の広報部の中のもう一人、部会に一度も出てこなかったフィリピン人のお母さんです。
座談会にぜひ、来てほしいと、フィリピン人のお母さんの家を何度も訪問しました。座談会にはついに来てくれなかった彼女が、年度末、最後の部会に来て話してくれたのは、日本人から受けた差別についてでした。
シングルマザーの彼女は夜の仕事をしていたため、当時小学五年生だったお子さんは朝方まで一人でお留守番をしていたのです。そんな彼女の家にお友だちが入り浸るようになりました。娘が一人で過ごすよりは安心できたので、夕飯の用意など、できる限りのもてなしをしましたが、その友だちの保護者からは一度もあいさつがなかったそうです。
フィリピン人の彼女は敬虔なクリスチャンです。クリスマスのお祝いにお友だちに小さなコサージュをプレゼントしました。
その翌日、初めてお友だちの母親が訪ねてきたそうです。彼女がプレゼントしたコサージュを差し出し、一言、「いただけません」と。
「だからもう二度と、日本人のお母さんとは会いたくないのです」。
私は返す言葉もありませんでした。
フィリピン人の彼女は、子どもの入学当初は保護者会に出席していたそうです。しかし、彼女が椅子に座ると、その両隣の椅子が空いたと言います。
その話を聞いたときから、私は保護者会の度に、一人ぼっちの保護者はいないか、「勝手にパトロール」を始めました。外国人を見つけたら、「こんにちは」と声をかけようと決意していました。
後に、この時の広報部の仲間たちを中心に立ち上げたグループ「レインボーリボン」が、毎年、新入生保護者会に出かけていき、「勝手に解説!PTA活動」と称して、PTA活動の紹介、参加者同士で自己紹介カードを交換し、外国人など孤立しがちな人には積極的に「おせっかい」をしましょうと呼びかけ始めた、その原点となった出来事でした。
ところで、この時の座談会には外国ルーツのお母さんが三人、参加してくれました。
三人とも「日本語が上手くないので、PTA活動はちょっと…」と言っていました。
ところが、翌年度のPTA役員会に行ってみると、なんと、その外国人ママ三人が三人とも出席しているではありませんか。
え?いきなり役員になったんですか?PTAはちょっと…って言っていたのに?
三人はそれぞれ、照れ笑いしつつ答えてくれました。
「今年は周年だから、PTAの仕事がたくさんあるでしょう?」
「日本語ができなくても交通安全のお当番くらいはできるかなと思って」
「バザーのお手伝いくらいなら…」と。
あの時の座談会で、外国人ママたちの悩みを解決する答えは出せなかったけれど、お茶とお菓子を囲んで一緒に語り合った、それだけのことで「心の壁」を乗り越えることができたんだなあ…。
みんな、子どもたちの役に立ちたい、日本人のママ友がほしいと思っていたのです。
私のPTA生活二年目は、こんな感動的な場面から始まりました。
ちなみに、私は小学校で三回、中学校で二回、広報部長になりました。「娘が一年生のうちに済ませておこう」と思っていたPTA活動に一年目でドハマりしてしまい、それからほぼ一年おきに「やります」と手を挙げていたのです。
初めてPTA広報部長になった頃の私は、人前で話さなくてはならない場面では足が震えていました。それが何度も部長を経験したことで、すっかりリーダーらしい振る舞いが身についたようです。
娘が中学二年生のとき、「ママ、今年はPTAやらないの?やってほしい。部長のママが誇りなの」と言ってくれました。
PTAで学んだことは、私を孤独から解放してくれる仲間は目の前にいるのだということ。
目の前の人と共に生きる道を歩き始めたら、生きることが楽しくなるということ。
楽しくて、幸せな人生を歩んだ先には、自分にとっても、周りの環境にとっても、信じられないほどの奇跡的な変化が待っているのだということでした。

第二章 怒りを力に― 「いじめ防止」に立ち上がる
うちの子は一人っ子です。この子が中学を卒業してしまえば、私はPTAの仲間と別れなければなりません。それが嫌で、レインボーリボンをNPO法人にしようと考えるようになりました。
うちの子が中学に入学したのは二〇一二年です。
前年の二〇一一年十月、滋賀県大津市の中学二年生男子が自宅マンションから飛び降り自殺するという事件が起きました。学校と教育委員会が「いじめ自殺」を隠蔽し、翌年七月に滋賀県警が教委と学校に強制捜査に入るなど、二〇一二年は「いじめ」が大きな社会問題として注目された年でした。
ひとり娘を中学校に送り出したばかりの私は心配で心配で、居ても立っても居られないような状態でした。夏休み前の保護者会で「はい」と手を挙げ、発言の機会を求めました。
「校長先生、いまテレビでは朝から晩までいじめ問題を報じています。いじめ自殺があった学校では『わが校にいじめはない』と言い張っています。でも、人間関係があるところ、どこにでもいじめはあると思います。この学校にもいじめはあるという前提で、どうか生徒たちを指導してください」
私の必死の訴えに、校長先生は「まったくその通りです」と答えてくださいました。「いじめが存在するという前提で、すべての教職員が見回っています」と。
なんて頼りになる、信頼できる校長先生なんだろう、ああ良かった、この学校は安心だ…。
その翌年、二〇一三年六月には国会で「いじめ防止対策推進法」が成立し、九月から施行されるという、その時でした。
七月、夏休み前の保護者会。あの校長先生の頼もしい答えを聞いた一年後のことです。
「二年生の保護者は集まってください」。
体育館から教室に移動した私たちの前に校長が現れ、言いました。
「この学年でいじめがありました。被害生徒はこれから三ケ月、PTSDの治療のため入院します」。
雷に打たれたような衝撃でした。一年前の保護者会で校長と交わしたやりとりが、なんと間抜けな、なんと呑気な、子どもたちの実態を何も知らない空々しいものだったのか…。いじめはちょうどその頃から始まり、秋、十月頃まで続いたといいます。
被害者のご両親がこの時の校長の説明では納得せず、夏休みに入ってからもう一度、緊急保護者会が開かれました。
私は発言原稿を用意して出かけました。
「前回の保護者会以来、気がつくと涙を流しています。
校長から『被害・加害』という言葉は使いたくないといった発言がありましたが、PTSDで入院する子どもは明らかに『被害者』であり、加害をした多くの生徒がいるのです。被害の深刻さをここにいる全員が考えなければなりません。
同時に、被害者が苦しみながらも生きていてくれることに感謝しなければいけません。被害生徒とご両親は私たちに反省するチャンスを与えてくれているのです」。
私は心理の専門家による「いじめ防止教室」を学校で実施してほしいと、この緊急保護者会でも、その後も校長室に何度も足を運び、訴え続けました。
しかし、保護者の中には「たかだか中学生のふざけ合いじゃないか」「被害生徒の心が弱すぎたのだ」と、公然と発言する人もいました。
校長は「教職員が対応するので、外部講師を招く必要はない」「九月にいじめ防止対策推進法が施行された後、教育委員会の指示を待って対応する」等、言を左右して、とにかく私の主張は黙殺する姿勢でした。
私はもう人前で話すときに足が震える弱気なお母さんではありません。NPO法人を作ろうと奔走していた時です。NPO法人のミッションの第一は「PTAのイノベーション」でしたが、もう一つ、「いじめ防止」を私たちのミッションとすることに決めました。
翌年、二〇一四年四月、NPO法人レインボーリボンが誕生しました。
その最初の理事会のことです。
理事会といっても、PTAのママ仲間です。いつも笑い声の絶えない楽しい会議なのですが、この時ばかりはそうはいきませんでした。
四月九日、同じ葛飾区内の別の中学校で、三年生男子が自殺したのです。
私の手元に教育委員会の「対応経過」という文書がありました。四月九日の自死に至る経過、翌日、四月十日の欄には「全校集会において母親の申し出により『不慮の事故』として説明」とあります。
息子が亡くなった日に「事故ですか、自殺ですか」と訊かれて、「自殺です」と答えられる母親がいますか?私は怒りの涙を抑えることができませんでした。
その後も学校と教育委員会は「いじめは確認できなかった」「自殺ではなく事故死」と言い続け、ご両親の再三再四の訴えにより、二〇一五年九月にようやく、区長が再調査を行うと回答しました。
第三者調査委員会の答申が出たのは二〇一八年三月。
この答申の内容がまた、信じられないものでした。要約すると、「加害者を指導することが不可能なので、本件はいじめを原因とした自死ではないとする」といった内容です。
え?どういうこと?
何度も読み返し、アンダーラインを引き、ようやく理解したのは、いじめ防止対策推進法を適用すれば「いじめ」ということになるが、いじめだったと認めてしまうと加害者を指導しなければいけなくなる、もう高校を卒業する年齢となっている彼らを指導することはできない、よって、本件はいじめじゃなかったということにしよう…そんな、大人の都合で出した結論でした。
あまりにも、ひどすぎます。
現実に身近で発生したいじめ事件に衝撃を受け、事件後の大人たちの保身に汲々とする醜い姿を目の当たりにし、私は泣いてばかりいました。悔しくて、悲しくて、怒りに震えていました。
怒りをエネルギーに、レインボーリボンは「いじめ防止教室」を子どもたちに届けるため、必死に動き始めました。
心理の専門家が開発した「いじめ防止プログラム」を葛飾区に導入しようと、教育委員会、区議会、校長会、各学校などに掛け合い、専門家の先生をお呼びしての講演会、体験会を何度も何度も開催しました。プログラム導入が難しいとなったら、私自身が他の地域で行われていた「いじめ防止教室」に通い、その指導方法を学んできました。
いま、年間ほんの数回ですが、私を外部講師として呼んでくれる小学校、中学校に出かけていき、三日間、四時間をかけて「いじめ防止教室」を実施しています。
心理学の専門家でもない、教壇に立って教えた経験もない、ずぶの素人が、子どもたちの命と人権を守りたい一心で学び続け、訴え続けています。
いじめ防止教室は「人との交流安全教室」です。
交通安全教室で交通ルールを学ぶように、いじめ防止教室では「人との交流安全ルール」を身につけてほしい。たった三つのルールです。
自分をいじめない、人をいじめない、そして、いじめをなくすために話し合う。
皆さんも子ども時代、いじめにあったことはありませんか?誰かをいじめたことは?
私もいじめられた経験、いじめた経験、両方あります。ある調査によると、小学四年生から中学三年生までの六年間に一度もいじめの被害を受けたことのない人は十三%、一度も加害の経験がない人は十二・七%だそうです。つまり、八七%の子どもがいじめの被害も加害も経験しているのです。
被害者、加害者の周辺には「傍観者」と言われる子どもたちがいます。
いじめ防止教室では一日目に被害者にならないために、自分を大切にする考え方と行動方法を伝え、二日目の授業では加害者が加害行為をやめるための方法をみんなで考え、最終日、三日目は傍観者の行動と、自分も相手も大切にするコミュニケーション術を学びます。
傍観者の立場にいる子どもたちに向けて、「一人ぼっちにさせられている子が朝、教室に入ってきたら、おはようって、声をかけてね」と呼びかけます。
あなたが行動を変えたら、教室が少し変わるよ。自分自身が少し幸せになるよ、と。 
第三章 「居場所」のキセキ ― こども食堂が教えてくれたこと
レインボーリボンがNPO法人化への準備を進めていた二〇一三年、「子どもの貧困対策法」が成立し、「子どもの貧困」という社会課題への関心が高まっていました。私たち、地域で暮らす普通のおじちゃん、おばちゃんにも何かできることはないのか…という問いへの答えとして、「こども食堂」が注目されるようになりました。
レインボーリボンが初めてこども食堂を開催したのは、二〇一六年四月三十日の土曜日、葛飾区男女平等推進センター、通称ウィメンズパルの調理実習室でした。
ウィメンズパルでやるので「パルこども食堂」。
場所をどうする、お金はどうする、子どもたちはどうやって呼ぶ、保健所の許可は必要?…
どのくらい右往左往したか、もう覚えていませんが、なんとか初開催の日を迎え、初日からたくさんの子どもたち、親たちが来てくれて、大にぎわいの食事会を終え、家に帰ってきたとき、私の夫と娘はリビングで夕飯の最中でした。
「どうだった?」と訊かれて、「よかった」と一言答えたときに、たぶんそれまでの緊張の糸がプツリと切れたのでしょう、いい年をして子どものように泣きじゃくってしまったことを覚えています。
いじめ防止教室を始めたときと同様、こども食堂も、何の経験もない私たちです。先輩のNPOの現場を見学させてもらったり、専門家の講演会や本で勉強したり、何よりも地域で昔から活動されてきた大先輩の皆さんに相談にのっていただきました。
その中には区役所の職員として、生活保護家庭やシングルマザーの家庭など、困難を抱えた子どもたちの現実に心を痛めてきたベテランのワーカーさんもいました。
「子どもの貧困」とは、単にお金がない、貧乏だというだけの問題ではないのです。
例えば、あるシングルマザーは生活保護を受けたくないと拒否し、手取りの良い夜の仕事に就いています。母親がいない家で小学生や中学生が、朝、きちんと起きて朝ごはんを食べて学校に行くなんて、できると思いますか?前の晩にはきちんと宿題を済ませ、お風呂に入ったり翌日の着るものを整えたり、そんな育ち方ができると思いますか?
また、ある家庭では親自身が自分の親から虐待を受けて育ってきて、子どもにとって必要な、栄養のある食事とか、清潔な生活環境とか、人としての尊厳、そんなもの自体を知らない。自分が親にされたように、自分の子どもも自分の所有物のように扱う…そんな悲しい家庭があるのです。
この話を聞いたとき、私はPTAの広報部で出会ったお母さんたちのことを思い出しました。
ある年のPTA広報部、第一回の部会を開いたときのことを思い出します。その年も部長を引き受けた私は、「皆さん働いている方も多いので、これから一年間、部会は土曜開催でいいですか?」と投げかけました。会議では土曜開催で決まりましたが、その後、一人のお母さんが申し訳なさそうに私に言いました。
「すみません。土曜も仕事をしているので…」
私は「何曜日がお休みですか?」と訊きました。その時のそのお母さんの答えが忘れられません。
「月曜日から日曜日まで働いているんです」。
当時、私は貧困問題をまったく知らなかったのです。今、こども食堂で表情がとぼしい子どもや、不安そうな表情の子どもを見ると、あの時、あのお母さんの腕にまとわりついて離れなかった六年生の女の子の顔が重なります。
広報部十二人のお母さん、中にはお父さんもいましたが、十二人のうち二人、なぜか毎年、六人に一人の割合で「部会に一度も出てこない」という部員がいました。
当時、厚生労働省が二〇一四年に発表した「子どもの相対的貧困率」は十六・三%、六人に一人の子どもが相対的貧困状態にあるという現実は、実は目の前にあったんだ、と気づかされました。
そんな過酷な環境で育っている子どもたちに月に一回や二回、こども食堂を開催したところで、その子の「困難」が解消されるはずもありません。しかし、「パルこども食堂」で学んだことは、「居場所の力」でした。安心できる居場所があれば、子どもは自分の力を取り戻します。ずっとうつむいていた子が、ある時、タンバリンを持ち出して、仮装をして、踊り出したこともありました。
私たちがこども食堂でやろうとしていることは、子どもに安心安全な「居場所」を提供すること、子どもに笑顔を取り戻すこと、楽しい思い出を作ること、自分は大切な存在なんだと感じてもらうこと…、そういうことだと思うんです。
それから半年後には別の場所で「あおとこども食堂」を開催することになりました。
私の様子が大変そうだったのか、それとも楽しそうだったのか、この頃から夫も調理ボランティアとして関わるようになり、高校生の娘も子どもの遊び相手として参加するようになりました。
ある時、娘の高校の先生が見学にいらして、「お母さん、彼女が初めてボランティア参加した翌日、すごく興奮して、とにかくすごかったって報告してくれたんですよ」と教えてくれました。
何がすごかったのか、はっきりとした理由を聞いたことはありませんが、大学受験を控えてキリキリしていた娘の顔が、その頃、少し明るくなったような気はしました。
娘はこの頃まで「私は子どもはキライ」と言っていたのですが、社会人となった今、しっかり子どもに関わる仕事に就いています。こども食堂にも度々ボランティア参加してくれます。
夫は今や調理ボランティアの大黒柱的な存在となり、小さい子に「こども食堂のカレーが大好き」なんて言われてはデレデレしています。
レインボーリボンは「PTAを誇り高いボランティア活動に」という合言葉で始まった地元のママ友達によるささやかな活動から、こども食堂の活動を通して大きく成長してきました。
初期の頃は「こども食堂」というネームバリューがものを言いました。
食材を買うにしても会場を借りるにしてもお金が必要になり、「私たちに寄付してくれる人なんているのかな」と半信半疑、及び腰で始めた募金集めも、驚くほどの成功体験となりました。
こども食堂の活動を続けるうちに、自分たちの勉強不足、認識の甘さを痛感する事態にも何度か出くわし、勉強会を開いたり、仲間同士で話し合ったり、活動の中身としての成長もありました。
最大の試練だったなと思うのは、二〇一七年十二月から約二年間運営した「よみかき宿題こどもカフェ@なぎ」です。
「パルこども食堂」と「あおとこども食堂」は誰でも参加できるオープンな居場所でしたが、「よみかき宿題こどもカフェ@なぎ」は、その二つのこども食堂で出会った子どもたちの中から、特に困難を抱えた子どもに私たちの方から参加を呼びかけて来てもらうという、限定的な開催方法でした。
様々な困難を背負った子どもを対象としたこども食堂でしたが、一人ひとりの「困難」の底の深さに触れながら、一人ひとりに何とか向き合い続けた活動でした。
二〇二〇年三月のコロナ危機によって「パルこども食堂」と「よみかき宿題こどもカフェ@なぎ」は開けなくなってしまったのですが、ここで繋がった子どもたちが、コロナ禍の最中も「フードパントリー」などの新しい活動を継続する私たちの原動力となりました。
フードパントリーとは、経済的困難を抱える家庭に無料で食料を渡す活動です。
繋がりを切ってしまったら命に関わる「困難」を抱える子どもたちの存在が、コロナ時代のレインボーリボンを強く、大きく成長させてくれました。
コロナ危機を乗り越えた今は、月に二回の「あおとこども食堂」と月に二回の「フードパントリー」、毎週土曜日を活動日として、団体理事でもある中核的なスタッフ二名、毎回献身的に働いてくれるボランティア・スタッフ数名、それに「あおとこども食堂」には常に十数名のボランティアが応募制で参加してくれます。
ある時、「あおとこども食堂」の開催日が緒方家の親戚の結婚式と重なってしまい、緒方家の三人が最初から最後までいないという事態が生じました。無事に開催できるのか、私も他のスタッフもドキドキハラハラしてその日を迎えましたが、ふたを開けてみれば、いつも通り、子どもたち、親たちの笑顔があり、多少のトラブルもベテランのボランティアさん中心に乗り越えることができて、終了報告のメッセージでは「緒方さん、また休んでも大丈夫かも」と言われてしまいました。
すごいな~、大げさに「後継者を育成しなければ」と頑張らなくても、十年近くやっていれば自然に「こども食堂」自体が自立して動き出すんだな、と思いました。
精魂込めて育ててきたレインボーリボンのこども食堂。そのこども食堂に私たち自身も育てられ、成長し続けています。

第四章 人と人をつなぐ ― ネットワークの奇跡
武道は「礼に始まり礼に終わる」と言いますが、ボランティア活動は「ネットワークに始まりネットワークに終わる」と言っても良いのではないか、と私は思います。人との出会いから始まり、人との繋がりによって助けられて、続いていくからです。
先に活動している先輩の姿を見て、自分もその仲間に入り、まずは真似をして、やり方を習い、そこから自分なりに一番やりやすい活動の形を生み出し、また周りに仲間を作り、その仲間たちも自分にあったやり方で何かを始め…という循環が、社会を良くしていく、自分たちも幸せになれる。
市民運動、ボランティア活動なので、無理をする必要はないし、活動を始めた当初の目的が達成されたら、あるいは活動を続けられない事情が生じたら、やめてもいいと思っています。
「かつしか子ども食堂・居場所づくりネットワーク」を作ったのも、そんな考えからでした。
このネットワークを作ったのは二〇一七年秋です。最初はこども食堂など、居場所づくりに関心のある人たちのメーリングリストでした。その後、葛飾区で実際にこども食堂をオープンさせる個人や団体が徐々に現れてきて、二〇一八年四月、リアルに運営委員会を開くネットワークの発足となりました。
発足当初は地域の農家さんからご寄付いただく野菜を分け合ったり、食物アレルギーや感染症対策の学習会を開いたりといった、ほのぼの、こじんまりとした助け合いのネットワークでした。
事態が急変したのは二〇二〇年、当時の安倍首相が突然、コロナ一斉休校を発表した時です。
二月二十六日、週明けの三月二日から春休みまでという、突然かつ長期間の休校要請が発表されました。学校が休みとなり、給食がなくなった三月二日の翌日、三月三日に、偶然にも私たちネットワークの運営委員会が以前から予定されていました。
ネットワークに集まる寄付食材を経済的困難を抱える子育て家庭に届ける「フードドライブ」の体制を作ろうというのが、当初予定していた議題でした。しかし、寄付があったら届けるというような悠長なことを言っていられない事態です。
私が「よみかき宿題こどもカフェ@なぎ」で出会っていた子どもたちは、「昨日のご飯は水おかゆだったよ」とか、「お母さんは病気で料理ができないから、お菓子を食べている」といった家庭にいます。学校給食がなければ、一日一食も栄養のある食事を摂れないのです。
「私、明日からお弁当を配る。家で作って、自転車で届ける」。
レインボーリボンの団体としての決定ではありません。私ひとりの決意として、ネットワークの運営委員会で宣言してしまいました。すると、「私も作るよ」「私も手伝う」と、二人がすぐに手を挙げてくれました。
三月四日に「お弁当、届けましょうか?」といくつかの家庭に声をかけ、五日から二家庭六食、翌週の九日には六家庭十五食、それから平日は二十食前後を配達する毎日となりました。
この「緊急お弁当プロジェクト」は結果的に、六月七日まで延長を繰り返し、最大十五世帯、四十三人を対象に、延べ千四百九十五個のお弁当を届けたという、大きな事業になりました。
最初は一人で、自転車で走りだしたプロジェクトでした。一人ではとても続けられないと気づいたときには、ネットワークのメーリングリストで繋がっていた社会福祉法人の方が障がい者の給食施設で作るお弁当を無料または低価格で提供してくださったり、車の運転ができる仲間が交代で配送ボランティアに入ってくれたり、次々と助けてくれる人が現れ、また、資金的にも当初まったく当てがなかったのですが、びっくりするくらいの寄付金、助成金が集まり、総額約六十八万円の事業を黒字決算で終えることができました。
あの、PTA広報紙を初めて作ったときと同じです。
一人ではできない、人と人との繋がりが奇跡のような結果を招いてくれました。
たった一食のお弁当を届けることが、この時、どんなに必要で、大切なことだったか、あるシングルマザーがプロジェクト終了に際して私に送ってくれたメッセージが教えてくれます。
「娘が嬉しそうにお弁当を食べている姿を見て、救われました。このプロジェクトがなかったら私は死んでいたと思います」。
大げさではなく、本当に自殺の危機があったのだと思います。
複雑な事情を抱えながら、行政の福祉サービスや学校の支えの上で薄氷を踏むように、なんとかバランスをとって成り立っていた生活が、あらゆる支援から突然切り離され、社会から取り残され、孤立してしまったとき、その人がどんなに恐怖を感じるか、追い詰められるか、想像してみてください。
お弁当プロジェクトはたった一つの、差し伸べられた手でした。
私自身もこのプロジェクトに乗り出したときにはネットワークの仲間や、名前も知らない寄付者の方々に助けられ、困っていれば誰かが助けてくれるんだなあと、とても嬉しく、安心しました。
この感覚、安心できる気持ちの良さ、世の中への信頼感を、お弁当プロジェクトは子どもたち、親たちに届けたのだと思います。

第五章 命のキセキ― ある外国人一家への支援
 二〇二二年十月十九日、ある外国人一家が成田空港からギニアのコナクリ国際空港に出立しました。
仮にデニーさん一家と呼ぶことにしましょう。七十才のデニー父さん、四十四才のミリア母さん、八才の長男、六才になったばかりの次男、三才の長女。この五人家族がギニアに帰国するまでの道のりほど、奇跡に奇跡が重なった物語はありませんでした。
文中の個人名はすべて仮名です。
 
私が初めて一家と出会ったのは二〇一九年の夏、葛飾区内でオープンしたばかりの、あるこども食堂でした。
ギニア人の一家が非常に困窮していて、電気・ガスが度々止められており、小さな子どもたちの食べるものもないようだという情報を区役所の自立支援相談員から受け、近くのこども食堂を紹介したのです。
デニーさんは物腰柔らかな背の高い人で、こども食堂のスタッフにも丁寧にお礼を述べていました。当時はブルキナファソ大使館のドライバーとして働いていましたが、二〇一七年の約一年間、コンゴ大使館で働いていたときに給与不払いがあり、一家の困窮が始まったとのことでした。
長男は春から地元の小学校に行くのだと、日本語ではっきりと話してくれました。下の二人はこども食堂でお腹いっぱい食べたその日も、あまり笑顔がなかったことが気になりました。
最も心配だったのは、母親のミリアさんでした。
「寄付ですよ」と渡した乾麺をひったくるように受け取って、急いで帰っていきました。
ミリアさんが私たち支援者への警戒心を解き、感謝を述べ、頼ってくれるようになったのは、ずいぶん後になってからです。
ミリアさんは母国のギニアで、幼い頃、養子に出された先で虐待され、母国語のフラニ―語も、ギニアの公用語であるフランス語も、読み書きの教育をほとんど受けていません。三十才になった頃、デニーさんのお母さんに「日本にいる私の息子と結婚して今の生活から逃れてはどうか」と勧められ、親子ほども年齢差のあるデニーさんと結婚し、来日しました。デニーさんによると、日本から母国に書類を送っただけの「結婚」だったそうです。
私たち支援者はその後、ミリアさんの日本語やお金の管理に関する「能力の低さ」にずいぶん悩まされましたが、ミリアさんは一夫多妻制のギニアからデニーさんの「日本での妻」として送り出され、日本語を学ぶ機会もなく、家計を任されることもなく、ただ家族の世話だけをしてきたのです。
二〇二〇年春、コロナ禍によってこども食堂の活動は制限されましたが、その代わり、私たちは「お弁当プロジェクト」、「フードパントリー」という新しい活動を始め、デニー家にも食料、衛生用品、オムツを届けました。
ミリアさんは支援を受けるだけではなく、自分で働きたいと訴えていましたが、ミリアさんが働くためには入管の許可が必要でした。
二〇二一年六月、私は入国管理局宛てにミリアさんの就労を許可してくれるよう、嘆願書を書きました。ギニア大使館にもミリアさんの在留資格を就労可能なものに変えてほしいという口上書を書いてもらいました。
私たちの支援は「デニー家支援」から徐々に「ミリアさん支援」に移行していきました。
二〇二一年夏、葛飾区役所で「支援者会議」が開かれました。
区役所の福祉部局、子ども支援の担当部局、教育委員会のスクール・ソーシャルワーカー、困窮者自立支援窓口、私たちボランティアが一同に会して話し合いました。
この時、共有された一家に関する情報です。
デニーさんは一九八七年、ギニア大使だった実のお兄さんのドライバーとして来日。その後、お兄さんはアメリカに赴任し、亡くなってしまったのですが、デニーさんはそのまま日本でアフリカ各国の大使館を転々としながらドライバーとして三十年以上勤務していました。
大使館勤務のデニーさんは「公的在留資格」を持ち、日本の住民票はありません。そのため、困窮しても日本の福祉制度の対象とはなりませんでした。
後にミリアさんに聞いたことですが、次男が生まれた頃はミルクも買えず、砂糖水を飲ませていたというほどの困窮状態で、都内では比較的家賃の安い葛飾区柴又に引っ越してきました。
そのアパートの家賃の滞納は百万円近く。電気・ガス・水道の滞納も。
区役所が最も頭を痛めていたのは、国民健康保険の滞納でした。
デニーさんは二〇一八年十二月、慢性心不全で地域の病院に入院しました。この時は「人道的措置」として葛飾区が医療費を支給しました。暮れの押し迫った中での緊急措置であり、もう二度と支給はないですよ、と念を押しているのですが、その後も、デニーさんはタバコを喫っていました。
次男が多動で発達障がいの心配があること、両親と学校や保育園側とのコミュニケーションに難しさがあることなど、様々な課題が浮き彫りになりました。
デニーさんの年齢、健康状態から、ドライバーの仕事をいつまでも続けられる状態ではなく、デニーさんが仕事を失えば家族全員の「公的在留資格」が失われ、帰国せざるを得ないという現実問題もありました。
しかし、デニーさんは「死ぬまで日本にいる」と言い、ミリアさんは三人の子どもたちを日本で育てたいと強く望んでいました。私としてはミリアさんの望みを叶える支援に取り組むしかありませんでした。
 二〇二一年九月、入管から「資格外活動不許可」の通知が届き、ミリアさんの就労がそう簡単ではないことが分かりました。
法律の専門家の支援が必要だと思いました。
法テラス国際室の初代室長、弁護士のT先生との、これも奇跡的な出会いがあり、ミリアさん支援はますます熱を帯びていきます。
T先生の助言により、ミリアさんのための「日本語教室」も始めました。フランス語を話せる友人が週に一回、オンラインで、まったくの無償ボランティアで、日本語を教えてくれたのです。
その後「定住申請」、「資格外活動の包括許可申請」と、T弁護士は粘り強く活動してくれましたが、入管からは三度にわたる「不許可」通知を受けることとなりました。
不許可の理由は「現在、デニーさんが相応の給与を得ており(ブルキナファソ大使館の給与は二十万円弱ありました)、一家の困窮は人道的配慮を要するほどのものではない」、「困窮を理由として定住資格申請はできない」、「そもそも公的在留資格を持つ外国人が困窮することを法律は想定していない」といったものでした。
言われてみれば、それはそうです。
ミリアさんと子どもたちが困窮している原因は、デニーさんが必要な生活費、学費を家計に入れていないからです。ミリアさんも自分にお金を渡すように強く主張できない、長年の従属関係の中にいるためです。
ほとんど打つ手なしの状態で呆然としていた二〇二〇年の夏、ついに恐れていたことが現実となりました。
七月四日、デニーさんが心不全再発のためICUに。医師の説明では「今後回復したとしても、いつ発作が起きるかわからない」とのことで、車の運転にはドクターストップがかかりました。もうドライバーの仕事はできません。
まず、医療費はどうするのか、生活費はどうするのか…。病院のATMで確認するとデニーさんの給与の残金は五百円余。
先月の給与が振り込まれた直後のはずなのに…。何に使っているの?どこに消えてしまうの?
この時の愕然とした思いを、この後、私は何度も経験することになります。
とにかく緊急カンパを集めなければと思いましたが、私の脳裏をよぎったのは、子どものオムツ代も渡さずにタバコを喫っていたデニーさんのために募金を呼びかけて良いのだろうか…ということでした。
寄付を呼びかける以上、寄付してくださる人の信頼を裏切るようなことは決してしたくないと思っています。
募金活動は、翌週には一般病棟に移動したデニーさんの了承も得て、限定的な範囲で呼びかけ始めました。
しかし、またもや奇跡が起きたのです。「日本の福祉では救えない外国人一家を助けたい」という簡単な説明だけで、デニー家とは何の関わりもない人たちから、あっという間に百二十二万円の寄付金が集まったのです。
デニーさんの回復も奇跡的で、七月二十七日に退院できました。
一方、ミリアさんは一貫して「ギニアには帰りたくない」と言い続けていましたが、在留資格の面でも、家計の面でも、帰国するしか道はありません。
八月はデニーさんの薬の確保と、ミリアさんの説得のために費やされた日々でした。
八月末、ミリアさんが一人でレインボーリボンの事務所にやってきました。
幼い時から暴力を受けて来たギニアに帰ることは考えられない、自分の子どもたちも同じような目にあうと思うと訴え、さらに、余命宣告を受けているデニーさんが亡くなればギニアのデニー・ファミリーは自分と三人の子どもを追い出すだろうとも言いました。
ミリアさんは「自分が死ねば子どもたちは日本の施設で育ててもらえるのか」とまで言いましたが、それで子どもが幸せに生きていけるとはとても思えません。特に、障がいのある次男を愛情をもって育てられるのはミリアさん以外に誰もいないと思います。
ミリアさんは何度も頭を抱えた後、結局、ギニアに帰ることを受け容れました。
T弁護士の尽力で九月に入ってから分かったことですが、三人の子どものうち下の二人はギニア大使館に出生届が提出されておらず、なんと、無国籍児だったのです。やはり、一度はギニアに帰国しなければならなかったのです。
九月は帰国に向けての準備に奔走しました。
デニーさんは日本語も英語も実は正確には理解しておらず、入管での手続きや航空券の購入といったことはできない人でした。すべての作業を支援者がしなければなりませんでした。
「ギニア大使館に陳情して航空券代を援助してもらう」ということは、本人にしかできないことですが、自分からは電話をしない、T弁護士の働きかけで大使館から電話がきても出ない、折り返しもしない、その後、一等書記官が夏季休暇に入ってしまってから受付職員にしつこく電話する…といった、何とも情けないことになってしまうのです。
ギニア大使館からの援助はついに得られませんでした。
航空券代だけで寄付金のすべてを使ってしまうことは避けたかったので、十月五日成田発、一家五人で五十五万円弱という格安航空券を見つけ、予約しました。
デニーさん、ミリアさんと合意書を交わし、寄付金のうち約二十万円は当面の生活費として帰国前にミリアさんに渡すこと、さらに寄付金の残余は帰国後の生活自立のために少しずつ送金することとしました。
十月五日、ボランティア数人がかりで一家を成田空港に連れて行きました。
日本出国時に審査がスムーズに進むよう、T弁護士が入管への説明書も準備してくださってあったし、ギニア入国に必要な検疫証明書はコロナワクチン接種証明書だけで良いことも調べてありました。
コロナワクチンはデニーさんもミリアさんもブルキナファソ大使館の職域接種を受けたと言っていたので安心していたのですが…、しかし、これがまさかの落とし穴でした。
航空機の荷物の制限も知らせてあったのに、一家が空港に持ってきた荷物は数も重量も、見るからに制限をオーバーしていました。大量の荷物を前に、航空会社の案内スタッフが早めにチェックを受けるように促し、まずはワクチン接種証明書の提示をと求めたところ、デニーさんが荷物の中を探し始めました。
ワクチン証明、ワクチン証明、ないな、おかしいな…。
我々ボランティアの間に嫌な予感が走ります。
ミリアさんはデニーさんに渡したと主張します。空港ロビーで大量のスーツケースを片っ端から開けることになりました。航空会社の職員も出て来て大騒ぎとなりました。大荷物をひっくり返し、ひっくり返し、探しましたが見つかりません。その間、三人の子どもたちは走り回ったり、勝手に航空会社のカウンターに入り込んだり…。
飛行機の離陸時間にもう間に合わないとあきらめるまでの約二時間半、私は暴れまわる次男を押さえているだけで精一杯でした。
ついにワクチン証明は見つかりませんでした。
家賃不払いのまま送り出してくれた柴又のアパートに再び一家を返すためのタクシーを呼び、ボランティアの友人と帰途についた電車の中で、私は初めて「もういやだ、もう降りたい」と言っていました。
心が折れた瞬間でした。
雨が降りしきる寒い夜でした。次男に蹴られた胸の痛みと、折れた傘を抱えて帰宅しました。あまりのことに涙も出ませんでした。
航空券は「日付変更不可」の格安航空券でした。私を信頼してくれてご寄付くださった皆さんの五十五万円弱を消失してしまったのです。
寄付者に何と説明すれば良いのか、お詫びの言葉もないと思っていましたが、この後、「一家はまだ帰国しておりません。申し訳ない」という中間報告メールを送ったところ、多くの方から「謝罪の必要はない」「緒方さんを心配している」と、温かい返信をいただきました。
その夜は一睡もできませんでした。
デニーさんに対する怒りで脳は興奮状態でしたが、雨の音を聞きながら、やはり三人の子どもたちの顔が浮かびます。もう今日で電気・ガスを止めたはずの柴又のアパートで震えているのではないかと思うと、やはり見捨てることはできませんでした。
翌日、ミリアさんと三人の子どもをタクシーに乗せ、デニーさんには後から電車で来るように言って、ギニア大使館に駆け込みました。さすがに大使館が保護してくれるだろうと思っていましたが、驚いたことに、その日の夜には一家は柴又のアパートに戻っていました。
デニーさんの「行動パターン」としか言いようがないのですが、「あなたの面倒を見ることはできない」という態度で一貫しているギニア大使館に対しては非常に弱腰で権利を主張せず、自分に親切に接してくれる人に対してはどこまでも甘えてくるのです。
あらゆることを許してくれた柴又の大家さんですが、ギニア大使館からアパートに帰ってきた日、我々支援者に促され、「警察を呼ぶしかない」とデニーさんに告げました。するとデニーさんはその場でブルキナファソ大使館に電話し、「大使館が一か月分の家賃を払ってくれることになった」と、また嘘か本当かわからない言葉を操って、その場を切り抜けてしまうのです。
結局、ワクチン証明書はどうなっていたのかというと、職域接種者のワクチン証明書は自治体に申請してから一週間以上待たなければならないので、帰国までには間に合わない、だからPCR検査を受けるようにと、ブルキナファソ大使館はデニーさんに説明していたそうです。にもかかわらず、PCR検査を受けず、空港ロビーでさえ、あたかも証明書を持っているかのような振る舞いをし続けたのでした。
後日、デニーさんとミリアさんをPCR検査に連れて行った日は、私は怒りが収まらず、デニーさんとは口もききませんでした。
子どもも接種証明が必要なのかどうか、私がギニア大使館に問い合わせても「もう二度とデニーのことで電話してこないで!」と逆切れされて話にならず、仕方なくエチオピア航空に問い合わせ、その搭乗条件に従って五才以上の二人の子のワクチン・パスポートを葛飾区に出してもらいました。
寄付金の残余すべてを充てても足りない分は私が個人的に負担し、十月十九日発の航空券を購入しました。
十月五日から十九日までの二週間、我々支援者は一度は折れた心をつなぎ合わせ、何とか励まし合って「帰国支援」を続けました。
一時はデニーさんと母子を引き離し、母子だけを日本の施設に保護することも検討しましたが、子どもの最善の利益を考えれば、やはりミリアさんが経済的に自立して子どもたちを育てられる環境に送り出すことだと、覚悟を決めました。
十九日の成田空港では、何度も念を押したのに今回も一家は制限オーバーの荷物を持ち込んできたり、特殊なパスポートが問題視されて搭乗手続きに時間がかかったり、やはりドタバタ、ヒヤヒヤではありましたが、なんとか出国ゲートで一家を見送ることができました。
ギニアのコナクリ空港に到着した時には、事前に連絡をとってあったデニーさんの姪と、ミリアさんの叔父さんが迎えてくれたそうです。
出国ゲートで見送ったときはまだまだ緊張状態で、日本語教室をやっていた時にミリアさんに教えてもらったフラニ―語で挨拶することを忘れてしまいました。
フラニ―語で「バイバイまたね」は、日本語の「温泉」と同じ発音で、「オン・セン」と言うそうです。

エピローグ 多文化共生って何だろう
その後もいろいろあって、二〇二六年現在、ミリアさんはアフリカのある国でシングルマザーとして三人の子どもを育てています。
日本とアフリカのその国との時差は九時間。今も時折り、夜九時くらいにミリアさんから電話がかかってきます。きっとお昼休みのホッと一息つく時間帯なのでしょう。
ひとしきり近況報告があり、もう電話を切ろうと「じゃあね、元気でね」というタイミングで、ミリアさんは「緒方さん、ママでしょう?」と言って笑います。
「私、ママですよ」と返すと安心したように、嬉しそうに、大きな声でもう一度笑って電話が切れます。
ミリアさんはあの日、出国ゲートの前で、「緒方さん、ワタシのママ、ママ!」と言って泣きました。私を母親のような存在だと思ってくれているのです。
そうすると、今、十二才になっているはずの長男は、私の「孫」でしょうか。
日本の学校では元気がありすぎて先生を困らせていたようですが、賢い、かわいい子でした。
「僕は日本人だ」と、当たり前のことだと、信じて疑わない目を今でも思い出します。
八才でギニアに帰国したとき、「あと十年もすれば十八才。きっと日本に戻ってくるね」と語りかけた私に、潤んだ目でうなずきました。
多文化共生とは何でしょうか。
私にとっては「外国人との共生」ではなく、目の前にいる、一人ひとり多様な文化、生い立ち、個性をもった「人」との共生です。
言葉も通じない外国で、子どものミルクも買えないほど困窮していたミリアさんと共に生きていく、そのための食支援であり、就労支援であり、帰国支援でした。
レインボーリボンのこども食堂は「多文化共生」を看板に掲げているわけではないのに、様々な人種の参加者が自然と混じり合い、交流する場となっています。
障がいがある人も特別扱いされることもなく、普通にその場にいます。
そんな自然な、人と人との繋がり、温もりのある「居場所」を実現できていることに、レインボーリボンの活動のキセキを感じます。
私たちは「多文化共生の子育ち・子育て環境をつくる」ことを目指して活動しています。
レインボーリボンの「レインボー」は七色の個性、多様性。
「リボン」は横につながる連帯の絆と、子どもたちの未来につなぐ平和と希望の架け橋です。
読者の皆さん、ここまでレインボーリボンのキセキの物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。きっとこれからも続く七色の道のりで、私たちはどこかで出会い、共に歩んでいく仲間なのかもしれません。そんな温かな予感を胸に、このへんで筆を置くことにします。オン・セン。

著者略歴
緒方 美穂子
NPO法人レインボーリボン代表。東京都葛飾区在住。
一九六三年、長野県生まれ。
大学卒業後、取材記者として十年、専業主婦七年、自治体非常勤職員五年の経験を経て、二〇一四年NPO法人設立。
夫と娘の三人家族。